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3棟の結晶ハウス

もくじ

屋号について

田野屋紫蘭(タノヤシラン)・小坂英晃

高知県安田町にある神峯寺の参道途中に咲く美しい花の「紫蘭」が由来。地域に根を張って頑張って欲しいとの意味が込められています。

田野屋白兎(タノヤハクト)・小坂千里

白兎は修行時代から、日焼け防止のために必ず白いマスクをしながら作業を行っています。おかげで、顔だけは日焼けしていません。 その姿が、師匠にとっては印象的だったことから白兎と名付けられました。

田野屋塩二郎との出会い

テレビで田野屋塩二郎さんを知り、実際に塩作りを見たことが人生の転機となりました。

塩二郎さんは東京出身。全くの異業種にもかかわらずに塩の世界に飛び込み、当時は誰も成しえなかった塩の作り分けやオーダーメイドという手法を確立。塩業界にイノベーションを起こし、ブランドを築き上げた姿にとても感銘を受けました。

すぐに電話をして塩ニ郎さんにアポを取り、ゴールデンウィーク中に車で19時間かけて埼玉から高知へ駆け付け、5日間ほど塩作りを体験しました。

衝撃的な塩の味、妥協のない生産方法、不可能とされていた塩の味や粒のコントロールを世界で初めて可能したという技術を目の当たりにして、これが自分の望んでいた仕事だと感じました。

さらに当時付き合っていた妻に話をすると、前のめりに「面白そう、やるべき、私もやりたい」と前向きな姿勢であったことから2人での弟子入りを決意しました。

安田町唐浜

弟子入り

「公務員を辞めてまでやる仕事じゃない、しかも二人で」、師匠は当初難色を示しました。

「何の保証もないよ」と、私たちのことを考え、断ってくれたのかもしれません。

しかし、私たちも並々ならぬ覚悟でした。「お互いの両親の承諾も得ました」と「職場にも話しました」と退路をたっていくことで本気度を見せ、弟子入りをすることが出来ました。

フェリーで移住

修行1年目

新婚生活が修行という特殊な環境の中、生活のすべてを塩漬けにした修行が始まりました。

師匠は「塩作りに正解はなく、人に教えることも出来ない」と、弟子に塩作りを教えることはしないというスタンスです。

私たちは疑問点は質問をしたり、遠くから作業の様子を伺い「見て学ぶ」ことから始めました。

師匠の塩を目標に、ハウスの室温、湿度、水温、海水を混ぜる頻度、混ぜ方、濃度、日当たり等の様々な条件を元に、出来た塩と師匠の塩を比較しながら、作り方を模索していきました。

初めて塩「処塩」

修行2年目

塩作りは混迷を極め、夫婦で当時理想としていた塩も異なることから、塩作り及び夫婦仲も大分鍛えられた時期となりました。

毎日話し合い、作り方を共有し、膨大なトライ&エラーを飽くことなく繰り返しました。

とにかく失敗を重ねた時期であり、商売を抜きにして塩作りができる修行のありがたみを感じていました。このときの失敗がなければ、今の塩には辿り着かなかったかもしれません。


修行3年目

自分たちオリジナルの完全天日塩製法を練り上げ、塩の味、形、大きさをコントロールし、技術をブラッシュアップしていく正念場となりました。

ここで、大きな変化がありました。「塩の香り」が変わったのです。今までは「味」や「見た目」でしか塩を判断出来ていなかったのですが、ある日塩から香りが「沸き立った」のです。なぜ、いままで感じなかったのか不思議なほど、濃厚で芳醇な香りでした。これを機に塩が劇的に変化をしました。

また、他の塩作りも見ておこうと、高知県黒潮町、徳島県、香川県、九州地方、千葉県の天日塩、釜炊き等を見て回り、塩作りの見識を深めました。

修行最終日塩二郎さんと

創業の土地探し

気象条件、海水の質や地理的な条件等をすべて満たす土地探しは難航を極め、高知県西部から東部まで、ほぼすべての市町村を回るも理想の土地を見つけることができませんでした。

さらに、九州や瀬戸内海、中国地方、関東圏の候補地を巡るも不発に終わり、このまま創業できないかもれしれないと絶望的な状況でした。

最後に、藁にもすがる思いで訪ねた、修行地の隣町である安田町に適地を見つけることができました。

この土地は、土地探し初期において、海水の取水が難しいだろうと候補から除外していた土地でした。しかし、役場の協力のもと、知恵を出し合いなんとか諸条件をクリアし創業することができました。


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